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デラシネ備忘録

       

 『deracine』の写真作品群には奇矯な日常の営みが展開する。公園のなかで糸を引く半裸の男、ラバースーツに身を纏う紳士、バーカウンターに膝付く女、無造作に置かれた小物、舞台袖の階段に立つダンサー、鹿の眼、さらにアンプの上に置かれた花束や鮮麗に咲き誇る紅いゼラニウムなど、どれも脈絡がないものばかりだ。特に作中の人物達に関していうと、過剰な閃光灯を浴び顔や体の表面が鉛白を帯びながら、綺麗さっぱり時空間を閉じ込めた化石のごとく周りの風景に溶け込み佇立している。とはいうものの、ここで変調し、抗えないカルマにされど亀裂が入る。作中の型抜きされた人物の、皮や肉などの軟質部とか、また骨などの固い組織部がいちどさらりと渦を巻いたあと時空間を越えて徐に流れ出す。その動静はピークを過ぎた果実が腐敗するなか皮が徐々に変色し、饐えた匂いを発し、やがて輪郭線をなぞるかのように緩やかにもとある形が朽ちていくのと等しい。そのようにして斉藤芳樹の写真はメランコリックな発酵に向けて、また見る者に瑞々しい動悸を孕ませながら、滞りなく何処までも生成してゆく。ボーダーレスに、セットアップやドキュメンタリーやファッション写真などの悪しき型を隔てなく素のまますり抜けるのは、いみじくも、作家本人が「デラシネ(根無し草)」のフィロソフィーを体現してきた証しでもあり、またそれと同時に、各作品に対して真摯に向き合い、様々なドラマの派生を謝絶した、作家のストイックな取組の成果でもある。つまりそれは、敢えて作家が写真から物語の引き金を取り除いたことに端を発する。ノスタルジアを彷彿する詩情を示唆せず、また曖昧模糊な情緒を一掃し、メッセージの所有を回避した、出入り自由の有機的な表現を創る過程のなか、いったん写真自体を肉も骨もすべて削ぎ落とした起点としての「記録」に戻してなお、より物憂げな揮発性の強いエタノール体だけを写真画面に残存させたことに、唯一、私達は意味を見出せるのかも知れない。あとは見る者が解きほぐす番だ。そのまっさらな虚無を昇華させて個の物語のうねりに置換していけばいい。そして『deracine』は見る者をそこはかとなくいざなう------------------------------------------------何処でもないここの何処かへ   川原英樹

                                                 


この文章は、写真展『deracine』について、友人の川原英樹が書いてくれたコトバの塊。
いわゆる通常の写真のためのテキストではなく、シャッフルされた
写真の隙間を彷徨いながら吐き出した、彼自身のもう一つのデラシネ....
とても気に入っている。



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